サイバー黙示録 2分でわかる世界 Cyber ​​Apocalypse ハル・ノートを書いたのは、ソ連のスパイ、ハリー・デクスター・ホワイトだった




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ハル・ノートを書いたのは、ソ連のスパイ、ハリー・デクスター・ホワイトだった

ハル・ノートを書いたのはソ連のスパイだと、ハミルトン・フィッシュが暴いた



註) ハミルトン・フィッシュは、共和党党首ではない。アメリカには、共和党、民主党とも党首というものがいない。院内総務が党を代表するような役職であるが、ハミルトン・フィッシュは共和党の重鎮だったが、院内総務は経験していない。彼が、共和党党首だったという、田母神氏の発言は事実誤認でる。



Harry Dexter White

ハリー・デクスター・ホワイト
Harry Dexter Whitez(1892年10月9日 – 1948年8月16日)
アメリカ合衆国の官僚。フランクリン・ルーズベルト政権のヘンリー・モーゲンソー財務長官のもとで財務次官補をつとめた。
 彼は、第2次世界大戦が勃発すると、ソ連援助を目的とした武器貸与法の法案作成に参画し、これは1941年3月に成立させた。
 1941年11月17日に「日米間の緊張除去に関する提案」を財務長官ヘンリー・モーゲンソーに提出、モーゲンソーは翌18日にこれをフランクリン・ルーズヴェルト大統領とコーデル・ハル国務長官に提出した。これがハル・ノートの原案である「ホワイト試案」(または「ホワイト・モーゲンソー試案」)となる。
 ホワイト試案では、日米開戦となることを懸念したハル国務長官は独自に「ハル試案」を作成してルーズベルトに提出。しかし、1941年11月25日にルーズベルト大統領の厳命により、「ハル試案」は破棄され、「ホワイト試案」にそっていわゆる「ハル・ノート」が日本に提示された。
  戦後、 1948年下院非米活動委員会において、ソ連のNKGB(国家保安人民委員部、KGBの前身)の在米責任者ボリス・ブコフ大佐指揮下の秘密工作機関について知る限りを証言、その中に彼の名前があったため、共産主義者であると告発を受けた。
 スパイ容疑で下院非米活動委員会に出席した3日後、ニューハンプシャー州の自分の農場にてジギタリスの大量服用により自殺。


 「ホワイト試案」の採択には、後にソ連のスパイであると判明したオーウェン・ラティモア(※1)の暗躍があった。

Owen Lattimore
※1オーウェン・ラティモア Owen Lattimore、(1900年7月29日 - 1989年5月31日)
 アメリカ合衆国の中国学者。第二次世界大戦前には太平洋問題調査会(IPR)の中心的スタッフを長くつとめ、また戦時期には中華民国の蒋介石の私的顧問となるなど合衆国の対中政策の形成に関与していたため、戦後はマッカーシズム(赤狩り)の対象となった。


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[ 2015/07/02 12:59 ] 歴史 | TB(0) | CM(0)

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